沈める光輪 十代とユベル十ユベアンソロに寄稿したものです 砂埃の街だ。そのまえは霧の街、こんな見通しのきかない場所ばかり好きで、旅そのものだって時計を気にすることもないのだった。バスは煙たく走り去っていく。十代も悔しそうにしていたのははじめだけで、ベンチに腰掛けてぼんやり霞む商店街など眺めているので、時刻表を調べるのは彼を叱りたいユベルの気まぐれだった。「ああ、とんまだね、これを逃すと次までずいぶんとあるんだから。どうするんだい」「昼寝でもして待つさ」「ふん、なんだ、つまらない」 ユベルはそう、いたって悪魔的に嘆いてみせた。そのようすはあまりにも稚く、はるか遠いむかし、献身に献身をかさねていつのまにか意識の外に放ってしまった幼年を追いかけるかのような辛辣さがあった。「寝たって何になるのさ、きみの夢を食べて楽しめるぼくじゃないよ、寝ている間に次が来たって起こしてやらないし、何か盗まれたって知らない」 言ってユベルはつんと澄ましたふりをする。そしていとおしそうに十代の髪を撫でた。はあ、と間延びした相槌をうって、十代はあいかわらず呑気に構えている。ユベルは自身の存在についてにわかに不安になり、ついでこの一連の悪戯にそろそろ影響を受けなくなった彼を憎み、ものの数秒で憎悪がふたたび愛情に変質した。「飽きた?」「なにが」「ばか」 十代はそこではじめてユベルの目を覗きこんだ。不思議そうに丸く見開かれた目が鳶いろの睫毛に縁どられ、あたかも月の裏側そのもののようすで翳った。きみの選択なんだね、またしてもぼくがなにかを捨てることが、きみの未来になりうるなんて……刹那によぎるものがかなしくて、おもわず目をそらした。 舗装も雑な道路の向こうがわに少年がひとり、興味深げにこちらを見ていた。見遣ると目がかち合い、少年のほうが居心地悪そうに視線をそらす。みんなそうさ……まったく……厭だ厭だ……微笑みながら唱えると少年は顔をあげる。彼はその表情に、不可解なものに直面したような、思案するような色をちらつかせたのち、鳥が獲物から隠れようとするのと同じ仕草でその細い身をすくめて商店街の人混みに紛れてしまった。「ねえいまの子ども見た」「たったいま走っていった?」「ぼくのこと怖がって逃げていったのさ」「そうかなあ」「きみったら本当に信じがたいほど鈍いんだね」 十代は唸った。ユベルがそのするどい爪の先で頬をくすぐると彼はくしゃみをして、忙しないことに、それから大きな欠伸をした。ユベルは砂埃の舞う煙った街並みから、整然としたバルコニーにやわらかな慈愛をもたらすどこまでも蒼褪めた空の秘密を懐かしく思った。やわらかな慈愛……ぼくを蹂躙した憎らしいあの光……偽善の光……とは、とおくかけ離れた……虹色の大気に包まれた愛撫。「でも……いや……あの子おまえが見えるなら、デュエル強いかな」「さてね、少なくともあのころの十代はぼくを見たって逃げたりしなかったよ」「そりゃあユベルおまえ」 言いかけて不自然に口を噤んだ十代を、今度はユベルが見つめる番だった。(それはね、ユベル――、) なんということ、忘れるはずもない! 街並みも服装も口調も何もかも廃れては生まれ変わっていくというのに、この名を呼ぶ声と、うすい唇の動きばかり永遠のようであった。永遠や無限の淋しさや冷たさをユベルはよく知っている。それでも有限に確約された「ずっと」だけが、甘やかに幸福であることを教わった。この唇から。 十代はうつむいて、まるく整った爪のさきを気にしている。何年もまえ(数千年もまえのような気がした)、こんなふうにふて腐れた彼を背中から抱きしめて言ったものだ。多忙がちな両親の代わりに。たとえば……かわいい十代、なにか苦しいのかい。聞かせて、そして笑っておくれ。たとえば……十代、なにして遊ぼうか? むかしのお城の話をしようか? あのころ十代はけっして傷つかなかった。よく熟れた果実のように、それはみずみずしく、張り詰めて、ゆえに脆かったのだ。「そりゃあ、なんだって」「うん」「ずるいんだねえ」 ユベルは十代を抱きすくめて「かわいくない十代」とつぶやいた。子どもか、子ども、子ども、ね……それはぼくがかつて投げうったもののひとつだ。十代の首すじに顔をうずめながらユベルは思う。 この肉体は、まだ幼かったぼくの可能性そのものだ。彼のために、少年の中のいまだ混じりあったふたつの性を一方たりとも失ってはならなかった。ぼくは異常であるとともに完全だった。神話の過ちを二度と犯すことのない……完璧な、手本のような、保護者たるもの。ぼくには不純の入りこむ余地のない愛情が可能だった。彼のために、彼の無垢のために、彼の恒久のために。それが必要になると信じていたのだ。はたして間違いではなかった。情念の鱗がぼくを覆い、焦がれるほど守り抜いたことを後悔した日は一度もない。ただ器の形が違うだけだ。いまとむかしと……彼はその魂こそあれ、もう「彼そのもの」ではなくなり、ぼくはぼくのままだった、それだけだ。 ああ……空。落陽。だってぼくはあの日……王たる子の御言葉をたしかに聴き……それはぼくの生の理由となり、また死の理由になった! ――ぼくはこの血筋に生まれたことをちっとも不思議じゃない、それはね、ユベル、きみがそうしてうつくしいかぎり、ぼくはだれにも負けないってことなんだ――。 不遜とも言えるだけの愛。きみの御手には蓮華、かねてよりなんと透徹し、畏れるべきものだったろう。そしてその花が手折られたさきでゆるやかに侵され、病んで、萎れていくことをきみはいつの間に赦してしまったのだろう? もう睡いよ、と十代の声に引き戻された。ユベルはまどろむ人間を抱く異形について、なにやら倒錯した聖画のようだと他人事に思いながら、むかしお伽の物語を聞かせたあの声で問いかけた。「……ねえ十代……十代は、ぼくをうつくしいと思う……」 十代は死と隣合わせの概念を透して、うっとりと目を開く。 きゅうに小さく感ぜられる王子の手のひらの体温におのれの運命を認めた日。変温する氷った皮膚にそのあたたかさが沁みいってくる絶望的な悦び。肉の切り裂かれる恐怖も、骨が変形する痛みも彼を狂わせなかった、しかしまさしくあの瞬間、ユベルは「ただの少年」ではなくなったのである。なにもかも月光のごとく静止していた。十代の陶然とした視線に、ユベルはかつてと同じ静謐を垣間見た。 ――ユベル、逃げたりしないよ――。 ただそれだけ言って、彼は大人のように微笑った。呪術じみた「絶対」の代わりに、有限のなかにひとつの世界として鎮座する「ずっと」が硝子細工の薄い被膜を以て彼を包んでいた。これがぼくの死であり、巡りくる誕生なのだとユベルは思った。煙る街のなかにふたりの輪郭はぼやけ、黄金いろの砂がさきの貴人を彩るように光った。