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秘めたるもの

創作 火星の砂糖漬け


 白い部屋で細長い指が花弁のように動いて、戸棚のなかから瓶をひとつ掬って出した。コレクションの棚である。旧時代の標本などがおびただしくひしめいていて、ぼくはあまり好きでない。彼はいわゆる物好きというやつだから、そういうものをたくさん隠している。言わないし聞かないだけで、ぼくの知らないものももっとあるのだろう。硝子の戸がシャンシャンと音を立てて閉まった。
「熱の取れるまで三年かかったんだ、ご覧よ」
 陽気な彼はもったいぶって花弁の指をゆっくりと開く。覗きこむと砂糖漬けだ。なんの果実かは分からない。熱の取れるまで三年、そんな変なものは、知らなかった。白っぽい茶の姿が見えるが、おそらくは皮ごと浸したのであろう。標本といっしょに食べものを保存しておくなんていう、彼の無神経なところは、その繊細な手からは想像もつかない。
「なんなの」
「りっぱなコレクションだ、しかも食べられる」
 その正体がなにものかは黙っていた。彼はナイフと、ちいさな薔薇水晶のうつわを持ってきて(とっておきの食器だ)、ふたつずつ、転がした。うす紅のうつわのなかで、かたい音がする。殻だよ、手で剥いて食べる、彼はそう言いながらさっさと自分のぶんに取りかかった。眺めているとどうやら、細かく繊維のある殻のようで少し剥がせば簡単に剥けるらしい。古書で見た、楊貴妃の果実に似ている。
「殻のまま砂糖に漬けて平気だった」
「平気だよ」
 いわく、浸透が良すぎるので、殻を通すくらいがちょうどなのだそうだ。ぼくもおそるおそる指で摘んでみる。弾力があるので、なかはやわらかいようだ。ざりざりと砂糖が指を這っていて、触れるたびに冷たくて痛いほどである。氷のようだった。彼のほうはもう実を取り出している。うつわの色とおなじ、半透明のばら色をしたうつくしい実であった。
「きれいだ」
「これからはもっときれいさ、見てて」
 ぼくは身を乗り出した。彼がその鳥類のような骨格を持つ花弁の指でナイフを持ち、まるくみずみずしい実に刃をいれてゆく。ぷつんと音がして、なかから溶けた紅玉があふれ出した。実にばら色を添えていたのはこれだったのだ。その美しい半流動の液体がつま先に触れた瞬間、彼はぱっとその指を唇にくわえて、こいつはえらく熱いんだ、気をつけて、としかめっ面をしながら言った。三年待って、まだ熱いなんて、そんな果実があるなんて嘘みたいだった。種は、なかった。
「どこでこんなものを」
「ぼくがいつも行くとこ」
 立ったままナイフを持った彼の影が、白い部屋で青くくすんでいる。ぼくらがいるこの部屋のそばには、誰もいない街があって、そこでよく、彼はいろいろと物色するのだ。ぼくは過ぎ去ったことに興味はなく、ぼんやりと、アンニュイに、来るか来ないか分からないものを待っている。しかし過去を見ている彼のほうがずっと生き生きとしてやさしく、笑顔だ。ナイフを濡らしたルビーを舐めた彼はさらに眉を寄せた。酸っぱいし、渋みもあるという。
「きみはどう思う」
 手渡されたナイフの先でぼくも、彼が割った中身をすこし戴いた。じつにじつに、ひどくあまくて、酸っぱいなんて嘘っぱちじゃないかと思った。どこかなつかしくて、こんな味ぼくどこかで食べたかしらと、ふっと視線を外して、窓のない白い壁を見ていた。この食べものはいったいなんなのだろう。ぼくに過去を思わせるなにかなんて……どうしてこんなものが、あるっていうのだろう。
「ぼくとは味がちがったろうね」
「なぜなの」
「ぼくらが失くして、もう二度と手に入れられないものが、この実のなかには入っているから」
 あたらしく育むことはできなくても、思い出すことはできよう。そんなふうにお節介なだれかが詰めこんだ。ぼくはなにかとんでもなくだいじなことを忘れているような気になって、かなしくもないのに涙をこぼした。もしかすると本来は、もっとたくさんの気持ちが、ぼくのなかにはあったのではないか? 両目をこすってぼくは彼を見た。しかし彼のほうはというと、しかめっ面のまま、ここにいることをむしろ安堵しているように、長いため息をついていたのだ。長い花弁の指が、口もとを覆って、くるしく蕾をとじていた。

【文章版ワンドロ お題は『珍味』で「火星の砂糖漬け」を選択させていただきました】

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