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街の暈

創作 いろいろな愛


 ……いけないこと……悪いこと……あたしだって解ってた……知らない……

 女たちはいつも感覚的で、それゆえ勝手だ。別離の日にふさわしく、重なる雲にぼやけた月が居心地悪く灯っている。
「アルファー地区、ミレニアムハイツのC棟まで」
 真夜中乗り込んだ小型タクシーの運転手名には知った名前があった。正人、まだ運転手してたのか、と声をかけると彼は振り向いて、どちらさんですか、とぶっきらぼうに言った。友人の顔すら覚える気のない男がよくもこんな仕事をする気になったものだ。
「おい同級生だろ、省悟だよ」
 正人は悪びれるようすもなく、ああ、とだけ唸って、車内の分厚い地図を引っ張り出した。正人はむかしから人を寄せ付けなかったし、むかしから頑固だった。同級生だった時分から教室の流行りには目もくれず、辞書は紙、サポートが切れるまでひたすらガラパゴス・ケイタイを使っているような男だ。ナビゲーションシステムによる半自動運転が常となった社会でも、彼はみずからハンドルを切ることを望んでいるらしい。

「ミレニアムハイツのC棟」
 おうむ返しに呟いて、のろのろと地図をめくる。
 これやってると客が勝手に降りてく、みんな忙しいんだな、と正人は気まぐれに続けた。
 彼が自分から話すことは稀だったから、今でもそれをうれしく思った。変わらないのは正人だけかもしれなかった。街の光がごうごうと俺たちを追い抜いて行った。
「おい、おまえ降りないのか」
「降りてほしいのか?」
「べつに」
 おもわず笑った俺におどろいたらしい正人が地図から目を離して、顔をまじまじと見つめてくる。彼はおそろしいほど純粋だった。この世にたったひとつ残った純粋が、この瞳のひかりなのではないかと、ふとよぎった。——俺が見ていたあのひかりが偽物だったとすれば。正人は何を言うでもなくふたたび地図に目をやって、言った。
「帰りが遅いんだな」
「仕事でね」
「夜中まで料理するのか」
 それは俺の心を傷つけるに十分だった。俺は彼が俺自身の職業を憶えていたことなんかちっとも気づかず、ただこの嘘が見抜かれているのだと思うほかはなかった。それはもう明日の仕込みだって大事なんだからさ、と放心からかえった俺は慌てて付け足す。ふん、と唸ったきりやっと分厚い地図を閉じた正人は何も言わなかった。

(明日なんて笑える冗談だろう。だけど俺たちはああしてすべてのことを清算した。彼女がうつくしい身なりで不純を包み隠していたことを責めるつもりはない。情けないのは自分自身だったのだ。)

 アルファ地区、と無線に呼びかけ、正人はアクセルを踏む。静かな始動に身をゆだねながら、俺は現在地をしめすナビゲーション画面がちっとも動かないのに気づいた。地図を見るのはそういうわけだったのか、と勝手に合点して、新型に切り替えればいいものをと思う。おそらく何度も言われてきたであろうその言葉をのみこんで、口を突いたのは然るべきものだった。
「正人、恋人はできたか」
 正人はこちらを見ようともせずにまっすぐ前を見据えたまま、いないよ、と答えた。刹那、俺はこの質問が繰り返されることを怖れたが、正人はそれきりまた口を噤んだ。
 彼女を愛していた……逡巡がよみがえる。ハイブリッド・カーの静かすぎるエンジン音が信号機の不躾な点滅にそぐわない。いまはむしろ沈黙が心地よかった。あれだけ答えを求めつづけたことに、なんだか疲れてしまったのかもしれなかった。
 ウインカーを弾く正人の指先が見える。無骨なわりに、ひどく軽やかなのだった。俺の心に似ている、と勝手に重ねている。
 ああ、もうなにも思いつかないのだ、こうするほかには。だって愛していたのだ、しかしどうしようもないのだ。

「……C、棟」
 正人は呟いて、そしてわずかな段差を乗りあげたあと止まった。その静止があまりにも自然なものだったので、俺はうっかりいつまでもこの車が走りつづけているような錯覚をした。星が流線になって目の端に消えていくようなゆるやかな疾走と無音とを感じていた。ベッド脇の睡眠薬——たくさん眠れば、それだけ落ちていくのだろう。あの浮遊を俺はずっと欲しかったのだった。
 勘定をぴったり済ませたあと、ありがとう、とほとんど息だけで言い、俺の声に合わせたように自動ドアが開く。

「だめだぜ、もっとたくさんの生きた人間に興味を示さなくっちゃ」
 降りざまに俺は声を張り上げた。(これは俺から、生き残る人々への呪いだ。)正人はなにも答えず、阿呆のようにぼんやりとナビゲーション・システムの画面を撫ぜていた。
 閉じられたウィンドウの向こうから、「目的地のルートを外れています」と遅ればせのくぐもった声が幾度となく響いている。

(決められた道を外れることは、いけないことだと思うでしょうね? 悪いことよ。あたしだって解ってたつもりだけど、なにも知らないの……なにも……きっと。)

【お題】たったひとりのために生きる料理人と壊れたカーナビを愛したタクシー運転手の物語

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