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撓む男

創作 めまい


 秋彦には奇病がある。蜻蛉の病である。きょうもまた、職場の医務室のベッドのなかで、発作が起こるたびに思いだすむかしを、描いていた。
 とんぼのめがねはみずいろめがね……、秋彦は少年のころ、この歌をいっとう愛していた。彼の住んでいた町の空には、夏の終わりごろ、蜩の声が聞こえだす時期になるとめいっぱいの蜻蛉が飛んでいた。蜻蛉の翅休めは子どもたちの絶好の機会である。秋彦もまた、そろそろと近づき、セロファンの翅を素早くつまむ……その遊びを何度も繰り返した。友人のなかにはつかまえた虫を飼う子どももいて、秋彦は羨ましくてならなかった。

 蜻蛉の眼はスクリーンのようであった。青空を飛べば青く染まり、黄昏を飛べば茜色を携えてくる。秋彦はそれを観察したいと思って、虫籠へ蜻蛉をいっぴき、閉じ込めた。それはしばらく翅をばたつかせていたが、やがてあきらめたように、秋彦が分からないなりに入れてやったとまり木を無視して透明な床のうえへ這いつくばった。机上にある虫籠はそれきりシンとしたかと思ったが、いざ秋彦が双眸を眺めんとすると、それはままならなかった。平たく伏した翅の期待はどこへやら、驚いて暴れだすのである。これには失望した。無垢な子どもは苛立ちはじめる。世界は腕のうちにおさまるばかりであると思っていた。

 そのうち秋彦はべつの遊びを思いついて、虫籠と、ちいさなバケツを持って外へ出た。虫籠の蜻蛉はまだせつなく息づいていたが、あいかわらず、とまり木には止まらなかった。秋彦は飽和した貴族の眼をしていた。鼻唄もまじえそうに、虫籠のなかで器用に蜻蛉をつかまえて、暴れるその翅をむしった。びりびりとあっけない音で、薄い紙きれ四枚が、秋彦の指先にべったりと貼りつく。翅であるのに、とても繊細な葉脈を持っていた。秋彦はそれらをバケツの水面へ滑らせた。油膜のてかてかした軽い翅が主をなくして浮かんでいる。みみずの形をした蜻蛉みたものを、船頭にしてやろうと思っていた。
 秋彦は船のうえに上手いこと主を乗せたが、この生きものは最後まで、秋彦の言うことを聞かなかった。船のうえでのたうち回って、水のなかでもおとなしくせず、勝手にバケツの底へ落ちていってしまったのだ。あ、と少年は声をあげた。それはしばらく水の底でうようよと蠢いていたが、飼いはじめたころと同じように、またしても這いつくばった。バケツを揺すったり、叩いたりしたが、今度こそはほんとうにあきらめてしまったようであった。ゆらぐ水中であこがれた双眸に見入る。そのすがたが、なぜだか異様にはっきりと見えるのである。逸らすことは許されなかった。蜻蛉の持つ無数の眼の数だけ、秋彦は見つめられていた。

 その日からである。はたして秋彦は蜻蛉の眼を手に入れた。ふとしたときに、百にも、千にもなって、まわりの事象が見えてくる。おそろしかった。あの人もこの人も、ほんとうはこんなふうな眼でおれを見ている。笑っている。怒っている。悲しんでいる。虚飾と素顔の入れ替わりが病的に敏い秋彦を追い詰めてゆく。蜻蛉の眼鏡は何色であったか? ああなぜなら、彼が最後に見た蜻蛉の眼は闇の色であったのだ。おのれの内面を暴く色、それらがたくさん、いまでも彼を監視する。同僚、友人、妻、彼をめぐる人々すべてに乗りうつって……おまえたちも子どものころ、蜻蛉をつかまえてあそんだか……、秋彦には、とても訊けない。


【文章版ワンドロ お題は『めまい』でした】

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