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寄居の虫

万明日


 兄の好きな場所だ、海。足を搦めとる砂浜のやわらかさに怯えたことを思い出す。抱きとめてくれたのはいつも兄なのだった。泳がないの、と声をかけた兄は臆せず水の中に足を踏み入れる、やがて腰まで見えなくなる。不安だった……わたしを置いてどこかへ行ってしまう気がして、たまらなく不安だった。
「泳がないの」
「え」
 パラソルの下でも白い肌が同色のシャツに溶けている。視線を上げるとぎこちない笑みにかち合う。万丈目財閥の御曹司、なんてことはどうでもよくて、同級生だった。
「ひ、日焼け止め塗ろうか、なんて」
「水着持ってきてないわ」
「あ、そう」
 あからさまに肩を落とした。表情のくるくる変わる人だ。それはカードをあやつるときでも同じ、だが、小細工の通じない圧倒的な力が彼にはある。あくまでカードをあやつるときは。
 プライベートというと、どうも間が抜けている。兄……わたしの兄、から余計なことを吹き込まれては素直に信じ込んでしまっているために、なんだか頼りない。今回のことだって兄が一枚噛んでいるのに違いなかった。ひねくれ曲がったストローのついた飲みづらいカクテルなんて彼の好みそうなものだ。非合理的で、なんのためにあるのだか知れない。
「その服、似合ってるね」
「ありがとう」
「青のリボンがいいな、天上院くんは青が似合うよ、うん……すごくいいと思う……」
「あきれた。褒めるのが下手ね、まあいいけど」
 うわべだけの言葉なんて役に立たない。海はうつくしくても、たとえカクテルが飲みやすくおいしかったとして、だからどうなのだろう。兄は彼になんと言ったのだろう、彼はどうするつもりなのだろう? わたしは彼の決闘者としての誇り高さを知っている。それではどうしていけないのか、わからない。愛なんて、デッキに触れる手つきでしか伝わらない。
「怒った? なに考えてるんだい」
 覗き込んでくる。置いてけぼりが淋しい子どもみたいな顔をする。わたしも知ってる、その淋しさ。
「わたしが海に入って……そのままどこかへいなくなったとしたら、どう?」
「そりゃ、捜しに行くが」
 ふしぎそうに見つめながら、彼は逡巡しなかった。淋しくない? と問えば、淋しいというか、はっきりしないことが嫌だ、とあたりまえのように言った。
「きみがどこへ行ったかわからないなんて、おれのプライドが許さん」
 いっしゅん、不機嫌そうに眉をひそめている、その表情が……わたしの知っているほんとうの万丈目準だった。影を落とすパラソルを追いやって、みんなに知らしめたい、ほんとうの万丈目準なのだった。
「万丈目くん、」
「あっ、まあ、そういうことのないように、ぼくがいるわけなんだが。ところで——」
 あわてたように茶化して、このビーチの歴史がどうの水質がどうのと畳み掛ける。いつも手の届くもう少しのところで引っ込んでしまう、もう子どもじゃないのに、まだ殻から出ることができずにいる。海に入ったものしかわからない快楽があるのだと思う。わたしも、そしてこのひとも、自分の世界を壊すのが怖いままだ。ばか、と呟いた声が、誰かの足あとといっしょにさざなみに消える。

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