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pieta

カイトとミザエル


 そのひとが三日月を落とし込んだ視線を遠くへ投げやると、カーテンの陰が青く揺れて光った。カイトの母さまの話を聞きたいとねだった夜だ。ふたりとも、嘘をつくのは上手くない。沈黙は金だとよく知っているし、正しさとはいつもプラチナであった。彼はいつになく饒舌で、おそらくは黄金よりも輝かしいものを拾いあつめる。選びとるちからは、だれよりも秀でていた。
「善いひとだった」
「思い出は?」
「うん……別荘で、よく花を集めた、ハルトを身籠っていたときもあのひとは子どもみたいに」
 彼は愛おしそうに目を伏せた。ありったけの信仰を示すなら、こんなふうだろうと思うような一瞬の陰がその眼窩に落ちた。
「おふくろは……白い花の、似合うひとだった」
 純潔と無垢と、光の色だ。彼らの母なら、きっと翼もあろうにと思う。ちいさな鏡をちらつかせて、遊ぶわたしを呼んだ母さま。あれも光だった。わたしの記憶でもっとも深い場所にある光だ。その思い出はかぎりなく澄みわたって、穢れた何物をも寄せつけなかった。心がどれほど蝕まれても、拭えばうつくしかった。硝子のように。
「白詰めの草を編んだんだ、教えてもらった。おれは首飾りに……」
 カイトは両の指さきを眺めて言った。草の匂いがその指に沁みて、思い出すたび香るのだろう。彼は笑うことこそしなかったが、おだやかな声色ですべてが物語られた。言葉のひとつひとつに、幼いわたしがあるようだった。やさしかった母さま。甘え泣きに駆け寄って、あたたかな腕のなかで、時には花の、時には料理のにおい、わたしにとって、そのすべてが母のにおいだった。母とはいつから母であったのだろう。彼女たちが選ばれているとすれば、その子である者はやはり毅然としなければならないのだろうか。あたりまえに明日が来ると思っていたとき、彼女らの腕のなかでは、毅然などあまりに遠い存在だった。
「おまえがまだ、おまえの母さまのなかで眠っていたころ、どんな言葉を聞かされたろう」
「さあ……」
 カイトはそこで初めてくすぐったそうに微笑んだが、同時に左胸をやわらかく押さえたことを、わたしはひどくいとおしいと思った。母とつながったまだ弱く作られたばかりの心臓。からだの記憶とはこころの前にある。忘れてしまう思い出が、カイトにもあるのだ。わたしは彼を抱いて、そっと自分の左胸へと引き寄せた。彼は目を伏せたままもう笑わなかった。ただしばらくはだまって、掌で触れた自身の心音と、耳をあてているわたしの心音とのちがいを聴きつづけていた。抑圧したさびしさを、互いにすこしずつ見せあってはいけないのだろうかと、ときどき考える。さびしさも、恐れも不安もかなしみも、怒りに変えていくことが強さであると思っていた。
「母さん」
 ほとんど息だけで彼は呟いた。叫んでも届かないことくらい分かっていたし、囁きはいつも胸のなかで響き渡るものだ。
「まだおれ、話したいことが……たくさん、あったんだ」
 降りはじめの雨に似て、その声はわたしの胸を濃く濡らしていった。じょうずに言葉を選べるようになってからでは遅かった。こんなにも不器用な生きものがこの世にあるだろうか。選ばれたひとの子こそ、失ったときには泣くことも許されない。皮肉なことに、この気高さは代えがたくうつくしかった。わたしはカイトの頭を撫でながら、幼い少年が編んだ白詰めの首飾りを想像する。その花は長く垂れて母の胸へも触れたろう。ただ伸びやかに、笑って生きてほしかったはずなのだ、自分の庇護なしではとうてい生きられぬ無力な心臓がいつしか繊細な指さきを持って手渡すよろこびを、嬰児を抱く姿のわたしは知りつつある。

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