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スクランブル

万明日
6/18はふたりのまんなかバースデーです
まんがの誕生日なのにアニメのふたりをかいてしまった……


 恋人のパンプスが泥に汚れていたって万丈目準は気にしなかった。そんなことより、彼女のふくらはぎにまで散った泥水の濡れ具合で、それがストッキングなどの薄い膜に守られているのでない素のままの脚だったことをようやっと知って、どぎまぎしているのだ。なめらかな白い脚であった。それが豹のようにまだらになるのだから、どこか目をあわせがたい色香を漂わせている。
「ひどい雨ね」
「まったく、急だったから、なおさらだ」
 六月の梅雨時に、準はありがたみを覚えずにはいられない。雷も、雨がなくては格好がつかないというものだ。だがあっさり売れて買いそこねた傘の代わりに、軒下の雨宿りとは敗者じみて情けない。となりを見れば明日香はぼんやりして雫に煙るむこうの街街を見ている。視線のさきに照る無数のカーライトや信号機は、薄暮のなかで泣いたように滲んでいる。脚の泥のことも忘れて、明日香は無心に眺める。何を思っているかはわからない。けれども準にしてみれば、彼女のその、か弱い頓着に勝るふしぎな真剣味が好きだ。
 準はしばらく明日香の横顔、琥珀に光る眼に見惚れていたが、そのうち思い出したようにポケットをごそごそやって、新品同様のハンカチを取り出した。自己の世話がめちゃくちゃな彼にとってそれは、大切な人に渡すためにあるのだった。
「天上院くん」
「……あ、ごめんなさいわたし、ぼうっとしちゃって」
「いや、何見てたんだい」
「何というのでもないけど、雨の街が好きなのよ」
「そう」
 準はわれ知らず、おとなのように微笑した。彼自身、明日香から「好き」のたったふた文字を聞くことに執心して長かったのだ。鈍い彼はまた、それを見た明日香がわずかながら赤面したことにも気づけなかった。差し出されたハンカチに目を留めると彼女ははっと染めたばかりの頬に手をやった。
「どこ?」
「ちがうよ、脚だ。泥が」
「いやだ、もう、気づかないなんてだめね……いいのよハンカチは、勿体無いもの」
「よければ使ってくれよ、あのギャンブラーみたいに宝物にしてくれるかい」
「あら、根に持ってるのね」 
 こんどは明日香がいたずらに微笑った。準といえば、ずいぶん冒険的な台詞を言ったつもりだったのだが、彼女が難なく受け止めるので拍子抜けしてしまった。こういった駆け引きのうまく行かないのは、彼らがわざと避けているのではなく、互いの言語に潜む隠れた意味を掬えないからという端から見ればひどくもどかしいものであった。明日香はしかし布地に皺ひとつないハンカチを素直に受け取ると、雫ごと泥をきれいに拭き取った。まだらに汚された脚がまた白くなめらかになるときの、おかしな優越感に準は思わず目を泳がせた。
 ちゃんと洗って返すわ、と冗談めかして、彼女のバッグのなかにしまいこまれた泥だらけのハンカチが、自分の未来ならどれだけ良いだろうと準は思う。掃除洗濯料理に育児、準は家庭を知らない。母親のエプロンのあたたかな匂いも、知らない。完成された社会しか見ることはできなかった。ままごとでも憧れていた。心のちょっとした内側で、むかしから変わらぬあどけない部分がある。彼は布地の汚れをさっぱり落とした明日香の溌剌とした表情を思った。洗って返すわ、だって。きっと似合うんだろうな。幼い準が怯えた目で外を覗けば、ときおりこういう景色が垣間見えるようになった。彼は図らずしてふたたび微笑んだ。何気ないことばが彼に甘やかで心地よい爪痕を残してゆく。それだけでよかった。

「弱まってくれればいいんだけど」
 そう言って明日香はまた遠くに視線を投げる。地面がたわんだ鏡になって、雨がうつたびに赤や緑の光を粒に乱している。愚鈍な雲があたりを覆って薄暮は老いるように暗がりはじめた。夜が近くなる。
 ふと彼女は、準の黒い革靴と、黒いズボンのことを思う。洗って返すわ。泥によごれて……わたしにくれたハンカチ……このひと、ぜんぜん気にしないのね。きっとたくさん、受けてきた傷も知らんふりでいるのだろう。明日香はそんな一面を、ただ無頓着だとは思わなかった。尊敬すべき対象だ。単純明快に見えて、ほんとうは塗りあわせた絵具のように複雑な色あいをしているのかもしれない。ときおり見せるしかめ面が、そんなふうに思わせることがある……雨のために世界がいくつもの階調を重ねられて、夜が、闇が、黒が、近くなるのだなあと、ぼんやりして、眺める。
 女の子は守られるものだろうか? 兄の吹雪は少なくとも、そう言った。明日香は兄のことがだいすきだったから、隣に立ちたかっただけだ。女だからって、だいすきな人の横顔をなぜ見られないのだろう? けれども彼女は、それがつまりは男にも適用される可逆的な真実だということに気づけなかった。その思想は著しく準と明日香とを対岸に置き、だからこそ近かったのだ。

 弱まるどころか強くなってきやがる……準は思わず舌打ちをしかけた。ありがたい雨もここまで足を止められては困りものだ。ディナーの店だって決めていた。明日香は恍惚として雨の街に見入っているし、おのれを嫉妬深いとは思わないが、やるせなくはなる。その目にどうか焼きつけられたら……くちびるを噛んでつま先を睨む。泥で艶消された革靴がところどころ濡れて、反射にうつくしく光るのが見えた。
 なんのために磨いたか、ゆめ見る人に会うためだ。理想を追って汚すためだ。横顔に見惚れるだけなら、愛されるべき男ではない。服や靴がコレクションだと思うなら、人の上に立ち目を注がれる万丈目の血ではない。こんなにあたりまえのことを、忘れたのか……身ひとつの準ははたと思い立って、軒下を出た。輝かしい光がなんだ! 汚れない温室育ちが、なにを手にできるというのだ。海路の日和は、あがけば見えるさ。
「万丈目くん」
「待っててくれ、今度こそ傘を買う」
 泥も気にせず分けていく。追いかけようとした明日香が、脚に目をやる。みっともなかったかしら、と恥じらった。稲妻がなにより、夜の街には目立つ。振り向きざまのまっすぐな目をたしかに見た。求める目だ。彼は振り切った。わたし、このひととなら濡れたっていいんだわ。でも信じて待っていたって罪ではない、支える手がある。信じられるその広い背。華奢な人だと思っていた。気づいてしまった。
「男の子って、いくつになってもずるいのね」
 気づいてしまった、彼女は気づいてしまった。けれども準はきっといつまでも知らないのだ。彼女がバッグのなかのハンカチを出して、代わってまだらに汚れたそれを、くやしくいとしく握りしめていることを。

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