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そらのめあて

滅びる鳥の種族のやうに/星はもいちどひるがへる〈宮澤賢治「暁穹への嫉妬」〉

Charlotte
歩未と有宇


 キャベツを刻んでいたら、鍵をまわす音がした。おにいちゃんが帰ってきたときはいつも迎えにいく。おかえりなさいを言うのが乙坂家の掟だ。ただいまを言うなりじっと見つめたわたしの頬に触って、どうしたのかと思っていたら、なんか付いてる、と言ってつまみ上げた。
「キャベツ……」
「あ、アユとしたことがちっとも気づきませんでした!」
 さっき手をやったから、くっついてしまったのかもしれない。あわてて受け取ったら、おにいちゃんはそれからちょっと微笑んで、制服を着替えに自室に入ったので、またお料理の続きをする。早く帰ってくると知っていたら、それはアユにとっておめでたい日だから、オムライスを作ったのに。
 キッチンは対面式。ほんとを言うと、テレビで観てあこがれていたのだ。着替えてきたおにいちゃんが、そのキッチンのむこうで、手伝おうか、と声をかけた。きょうはおにいちゃん、とっても早く帰ってきてくれた。だから、ほかにはなんにも。ううん、と首を振った。
 おにいちゃんはお客さま。そうやって小さいころ、お皿にプラスチックのオムライスを移してもてなした。切るとざくざく音がする、マジックテープでくっつくお野菜を添えて。おにいちゃんはオムライスが出るといつだって喜んだ。デザートにプリンを召し上がれ、と言ったら、うれしいなあ、と笑っていた。だけどそんなおもちゃ、家にはあったろうか、デパートのおもちゃ屋さんにあるプレイルームでのことだったような気がする。そうだ、帰りにはちゃんとプリンを買ってもらった。連れてきてくれたのは誰だったっけ。男のひと、おじさんだったろうか?
「歩未」
 名前を呼ばれてはっとした。ぼんやりしていた。この頃おにいちゃんは帰るのが遅かったから、話し相手がいなくって、ひとりで物思いすることが増えてしまった。おにいちゃんは、具合が悪いか、とたずねた。なんでもないのです、と返して、お医者さんごっこもしたなあと思った。このあいだ風邪を引いたときにも思い出した。おにいちゃんが患者さんで、わたしがなりたかった看護師さんをしたら、お医者さんがいなくなっちゃうので変だなあと言って、おにいちゃんをお医者さんにして、わたしが患者さんになったことがある。おにいちゃんはあの時も同じようにわたしの熱をはかって、高いね、休もうか、とお布団に寝かせてくれた。そのあと自分も横になって、昼寝にしようよ、ぼくも眠くなっちゃったなあと欠伸をした。わたしはそのときずいぶん嫌がったけれども、いざ熱を出してみると心が弱くなって、隣で誰かが眠ってくれることは心強い。わたしが女医さんをすればよかったのになあと、今ではちょっと面白いけど、おにいちゃんはやっぱりお医者さんになってもすごいのだ。
 でもいつからか、そんな遊びはしなくなった。おにいちゃんがわたしと女の子らしい遊びをすることを恥ずかしがったからかもしれないし、わたしが、おままごとではない本物の家事をするようになったからかもしれなかった。おにいちゃんの声がかすれるころには、みんなで家事を分担したりして(みんな?)わたしはそれがけっこう、楽しかった。今だって楽しいのだ。おにいちゃんがいるから。
「有宇おにいちゃん、あのね、アユお願いがあって」
「どうした」
「きょうはお客さまになってほしいのです」
「え」
 おにいちゃんは呆気にとられてしばらく考え込んでいたが、あ、と思い出したようにつぶやいた。なつかしむように、見える記憶を目で追った。その視線がずっと、おにいちゃんのままだ。
「アユの大事なお客さま、ね」
「覚えててくれたんだあ!」
 おにいちゃんはおとなしく席について、料理が出るのを待っていた。オムライスじゃなくてごめんね、とお出ししたお料理に、野菜スープを添えていた。おにいちゃんはお母さんが嫌いになってしまったのだろうか。アルバムのなかにあるお母さんがうつっていただろう写真が、いつのまにかなくなっていたのを知ったとき、咄嗟に、おにいちゃんが隠したんだと思った。おにいちゃんはオムライスが好き。おにいちゃんはお母さんのつくるオムライスが大好き。
「えへへ、なんとデザートにはアイスもあるのでござる」
「へえ、うれしいなあ」
 よかった、なにも変わらないんだ。うしなった写真のように、訳もわからず消えてしまった思い出が、あるような気がして怖い。ほんとは、ごっこ遊びだってわたしだけが覚えているんじゃないかという気さえした。でもいいんだ。なにも変わることなんかなかった。だいじょうぶ。おにいちゃんはアユの大切なおにいちゃんで、お客さまで、お医者さんだ。おにいちゃんがいるから怖くなかった。今も。
 いただきます、と言っておにいちゃんはスプーンをひらっと動かした。おにいちゃんがずっと、アユのおにいちゃんのままでいること。それは一瞬きらめき、銀の光が水面に沈むのが大好きな流れ星に似てうつくしかった。

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