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玻璃の河

Charlotte
乙坂兄妹
6話あたりのはなしです


 有宇おにいちゃんみたいなひとがいいな。

 ぼくにはまだ歩未をほんの子どもだと思っているふしがあって、だからこそ今度のことはどうもしっくりこなかった。歩未はこの間までは小学生で、そんなことを言うとぼくだって中学生だったわけだが、ぼくばかりいろいろあって、歩未のほうはむかしからちっとも変わらないように感じるのは気のせいだったのだろう。
 熱を出した夜、すこしのあいだ握ってやった手はもう、子どもの頃の歩未の手とは違っていた。歩未の指はいつのまにか細く長くなって、しっとりと熱かった体温も内側に収まってしまったらしく、代わりに熱病の異常な火照りだけが眩暈のように巻き付いていた。自分の妹をこんなふうに言うなんてぞっとするが、あのときぼくはたしかに、肉体の隔たりみたいなものを思い知らされた。それはぼくの力と裏表の認識だが、ぼくが能力を施行するときの、自意識を失うのとはまったく違う、むしろ正反対の感覚だった。ぼくのからだがあって、ひとの……歩未のからだがあって、それがけっして溶け合うことがないのだと突きつけられた気がした。
 愛されるべき人間になりつつあった。ぼくがどんなに自然を真似ても歩未にはかなわない。ぼくは歩未が好きだった。誇らしかったが、平気で花を摘む者を見るように、もちろん歩未の言う少年は好きになれなかった。きっと狡いやつなんだなと思った。盗んだ蝶の標本は、ポケットのなかで壊れるのが決まりだ。
 歩未はぼくではないし、ぼくは歩未ではない。お付き合いの話……とか、永遠に来るはずがないと思っていたのだろうか。兄という名目を持ちながら、記憶から遠いあわれな父親のかわりに、ぼくはなっているはずだった。それなのに、ほんとうは、ほんとは、ぼくの内側にある歩未の存在ばかりを具現化して目に焼き付けているだけにすぎなかったのだ。歩未。歩未。いまでもぼくのこと好きかい。有宇おにいちゃんのようなひと、なんて、やめたほうがいいぜ。痛かったのかな、少なくともぼく、その感覚ばかりは、分かってあげられるはずだったのにな。ああぼく、おまえのおにいちゃんだったのだ。だるまおとしで残ってしまった、一番上はひとつきり。
 蜘蛛の巣が光っていた。昨夜はひどい雨で、窓硝子が歪んだのを、どうにも不安な気持ちで眺めてカーテンを閉め眠ったことを思い出す。「それでも残ってるんだね、強いんだね」と歩未が感心したように覗き込んだが、気味が悪いから止せよとぼくは言った。巣の端ではそこの主が八本の長い脚を代わる代わる動かして懸命に城を広げているところだった。「がんばりやさんだなあ」、歩未はなおも言い、ぼくはそういう謙虚な姿勢が気に食わなくて、できたばかりの部分にふっと息をかけて壊してやりたかった。諦めなければなんとかなるとか、そんな二十四時間テレビの良い子主義はたくさんだ。世の中には不可能ってこともあるのに、そういうやつは空気が読めないので呆れてしまう。先に行くからな。有宇おにいちゃんてば待って。アイス溶けるぞ。コンビニに寄って、ちょっと贅沢な散歩をした日のことだった。
 どうして手を引かなかったろう。思えばそんなふうに、ぼくはすこしずつ義務を怠っていたのだ。狡猾に手を抜いて、立派なはりぼての巣をつくることが美徳だと思っていた。ぼくは愚かにも歩未に対しては真摯であるつもりだった。なにが真摯だろう? やさしくあることが? やさしいとはなんだろう? 脆い巣はおまえを絡め取ることができなかったよ、けれどもぼくはずっと、その巣を弱くしたのは、おまえの自由のためだと言い訳をしていた。やさしいとはなに? 歩未、おまえはなんのために生きていた?
 まだなにも知らないあどけない笑顔が、ぼくの内側を超えて、硝子のむこうに行ってしまった。歩未はぼくのお嫁さんみたいだ。言ってあげたら喜ぶことを、いつまでも先延ばしにして、明日が来るのはあたりまえだと思っていた。ぼくはすべてが話半分だった。ぼくはべつに、自分が死ねばよかったなんてほんとうに思っているわけじゃない。けれどもぼくより歩未のほうがずっとずっと、他人とともに世界で生きてゆく意味を見いだせるはずだった。歩未はぼくの両腕で、両足で、頭脳で、脊髄で、心臓だった。ぼくにとって歩未はたしかにぼくだった。でもそれはどうしても不可能なのだ。もがいてなんとかなるものじゃない。その証拠に歩未がいなくてもぼくは生きていた。ぼくが生きているのに歩未は。生きるとはこころなのだろうか。ぼくは人のこころまでも知ることはできない。そりゃそうだよ、だってぼくは歩未じゃない。
 ひとりで家のことみんなやるなんて大変だな。おまえはどんな気持ちで毎日こなしてたの。最近はインスタントと外食ばかりだ。家に帰らないと怒るね。眠たかったこともあるだろうし、ぼくに話したいことも、もっとあったかもしれないのになあ。おまえのいちばん見たかった星のことも聞いとけばよかった。歩未、こんなぼくのことまだ好きかい、歩未、熱を出した夜は心細かったかい、それをぼく、もう知ることはできない。これがぼくの怠惰への罰だ。ひどい雨、歪んだ硝子に流されて、おまえがどこかへ忘れられてゆくのを、ただ眺めるしかないのだ。

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