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猟人の剣

カイトとミザエル
前世の勇者さまと金龍
捏造ばっかりです
5/3訂正


 翠緑のにおいに目を覚ました。なるほど天にそびえる林があり、笹の葉みたようなもののうえに天城カイトはねむっていた。虫などついてやしないかと起きあがって服をはたいたが、あまりに涼しく心地良いので、そのあいだにも彼の目は落葉にうつる翳った陽射しのもとを追っていた。森林浴などいうものも、けっしてばかにはしないつもりだ。
 たしかに林はうつくしかった。極東に存在するだろうすべての植物が、そこに生きているようだ。しかし「帰らねば」と彼は思った。彼にはなにより、この景色をともに見たい相手がいたからである。まだ幼い。歳の離れたきょうだいである。だが幼年の研がれた感性を遺憾なく風情にそそげる子だとカイトは思う。きっと翡翠の柱の薫風も病身を善く癒すだろう。弟のハルトは鉄柱の増える時代に、あまりにも繊細に生まれてしまった。
 地面は葉で覆われ、踏みつければやわらかく踵を包んだ。シャツのあわいに風がそよいでは沁みる。そこに群生するのが竹か笹かも彼には分からなかった。なにか長い葉が垂れて、醒めるような翠をこぞって太陽に見せつけている。恩恵を得るためにどこでもみな懸命だった。カイトはいつも競争からひとり離れていた。優等生で、はるか高みにおり、追われる心配も知らずに育った。不自由はなく、それがむしろ貧しさとは別種の不幸を生むこともある。なにもかもぼんやりとして、ときおり生きることが無益にすら思われた。弟の誕生がそれを変えて、彼はひとのために生きる歓びをようやく知った。自分を道具のようにするのが、心なく、まっすぐに澄んだ剣の先のようで好きだ。生存欲に塞がれたこの林に、しかし彼は、なんの沈鬱も見いださなかった。対極にありながら、背中合わせには同時に追い求める、突き詰めたぎりぎりの、若い豹の躍動のようなものがそこにはある。それらの争いはぬるくはなかった。文字どおりの必死さが、カイトを羨ませた。
 そのとき林の隙から、ざわめきを感じてカイトははっと身を固くした。大きい。獣なら、下手に動くのはあやうかった。彼のたくわえられた知識はここではなんの役にも立たなかった。今はただ、持って生まれた精神力だけがきつく張った弦のように幽かな音をたてて震えていた。
 長靴が見えたとき、彼は思わず息をついた。野生より話がわかると直感したが、すぐに思いなおして、銀の眼を凝らして主を認めようとした。まず腰が見えた。鞘を提げていた。銃も刀も覚えのない平和ぼけした世界しか見たことがないカイトは、愕然とした。狩猟のためなら良いと刹那思った。次いで平らかな胸が見える。黄金の装飾が木漏れ陽に光りまばゆかった。そして鎖骨から上を認めた……。

 母が縫いつけた外套の釦がふたたび外れ、見失ってしまった日、睡られずにいた。そのときすでに、面映く微笑って失態を報告するための母はもういなかった。代わりに悲嘆に暮れた父と、彼が自然と形見にした、非力で病弱な弟が残されていた。母が遺したやさしさをひとつ無下にした気がして、かといって上書きすることはあまりにむなしい。カイトは新たに繕いなおすことをやめ、針も糸も捨ててしまった。
 生きたい人ばかりが死んでいく。この弟だって、明日もわからぬ不安におびえる夜が続くのだろうと思えば、おのれの蝋を継ぎ足してやることがなぜできないのか、口惜しくてならなかった。生きんとする意志が総じて放つ魂のように蒼白く研がれた剣のひかりを、せめておれも持ちたいと、彼は願った。

 はじめ、胸もとで彼の目を眩ませたのは装飾ではなかったのかと疑った。そのひとの長い髪は透かした蜜の色に輝き、眼は遠くでもはっきりと、蒼くしずかに揺れていた。東の香を焚かれたこの場に到底不釣り合いな姿は、カイトとなんら変わらなかったのだ。だがやはり腰に括られた長鞘がカイトの表情を曇らせた。左手は、柄に添えられていた。
 彼の視線はしかとカイトをとらえたはずであったが、見過ごすように目を逸らした。逸らされた目の先を追いかければ、一瞬太陽が駆け降りて、その少年の髪のさきと溶け合ったように思われた。しかしそれは翼であった。黄金の巨大な翼が、少年の痩せた体躯を撫ぜたのである。
「あ……」
 思わず声をあげていた。翼の主は龍だ。額の鉱石はこの林の翠緑をうつしながら、中心に向かうにつれ黒々と水底のように深く染まっていた。その鼻先に触れて、少年ははじめて微笑んだ。カイトは突然に、郷愁の意に襲われた。彼らはたがいが愛しくてしかたがないのだというふうに、かなしそうに、淑やかに触れあっていた。あの鞘は飾りではない! 生きていたいのだ。あの少年は日々を続けるために選んでいる。しかしカイトは、だれより生きたいはずの人びとが、いかなる路を辿るかを知っていた。かといってその鞘をおれに渡せと、ただ叫ぶだけのこともできなかったのだ。
 彼はほんとうに死ぬのがおそろしかった。想像するだに足が竦んでいた。弟を、父を、母を思った。おれはけっきょく、自分のために生きたいのだ。明日もあさっても、会いたいから生きるのだ。だから少年も……明日のために、剣の蒼白をあんなにもひそめているではないか。あれが光ったら賭けがはじまる。カイトは賭けに負けたくなかった。なにも言えなかった……競争など素知らぬ振りで、けれどもそれは、勝てないことに沈黙を続けていただけのことであった。
「だめだ、行っては」
 声は届かなかった。カイトはそこに立ち尽くしていたが、分厚く透明な光陰の隔たりがあるように思った。舞台のうえに立ち演じはじめたものに観客の姿が見えないように。手をのばしそうになって、だがその指先が震え、氷ったように動かない。怖れていた。死を。獣も、殺しのための切っ先も、敗北の絶望も挫折も……まだ見ぬものがなにもかも怖かった。風は相変わらずやさしくカイトを慰めたが、かえって彼の無力の感を煽った。龍と少年は、ひとことも言葉を交わさなかった。しずかにまっすぐ見据えて、カイトはその視線の結び目にそれぞれの覚悟と、ゆえに生まれるだろうかなしみとを認めてしまった。少年が踵を返し、歩を進めた途端にさあっと胸が冷たくなって、呼吸がむずかしくなって、また、臆した。

 やわらかなベッドが、沈みすぎる気がして、起きあがるのも億劫だった。まだ夜明けのころで、彼はこれからする仕事を思って暗鬱に苛まれた。生きたい人ばかりが死んでいく。あれから他人のためになげうつ勇気と、蒼白いひかりとを彼もたがわず持ち得たが、生きるためにしていることが、彼を追いつめる。魂の蒼さはこんなにも重苦しかった。こんなにも身を削った。
 不快な、浅すぎる微睡みのなかで、ゆめのようなできごとを思いだしている。ゆめであったかもしれないし、ほんとうにそこへ行ったかもわからない。ともかく見たのである。カイトはあの端麗な少年が蒼い目をしていることを知っていた。同じように蒼く光る剣を携えていたことも。だがそれらはカイトの持つ冷たいひかりの類とは、明らかに違うものを含んでいた。なくした釦のように、なにかが不足したむなしさだけがある。なにが足りないのか、どこで履き違えたか、思いあたることはなかった。
 彼のあこがれは霧散した。消耗したこころは、もはや生きることになんの美も見いださなかった。求めていた純粋はどこにもない。活発な獣の躍動もなにも、彼のほうから殺してしまった。つねに結果がものを言った。みにくくあえぎ、傲慢に足掻くことがすべてだ。同じ必死でも、現実、死の恐怖は凶悪なまで一方的であった。
 美徳は、おのれのために生き、だれかのために死ぬことにあった。底冷えする煌めきのみを詰めこんだ形骸が、まもるべき内側の果実を探し歩く。彷徨うことを強いられたカイトは以前の自身を憎んですらいた。なぜなら求めたものは泉の月だったからである。あのとき矜持というものの輪郭だけが翠玉の風に冷やされてどこまでも透き徹っていた。彼はその夢想的で甘美な面影をひたすら求め、おそれ崇めるとともに、そういうおのれに酔いしれていたに過ぎなかったのだ。

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