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ベイビードール

カイトとミザエル


 研究室に似たところにいる。病院かもしれないし牢獄かもしれないが真っ白な部屋だ。ひどく狭くて窓もなく、空気は淀んでいる。わたしはそこから出られないのである。からだにはたくさん、なんのためなのか器具が着けられて重たかった。この部屋の外にはカイトがいて、彼のマイク越しのアナウンスが時折聞こえるのみである。おとなしくしていれば、会えると思っている。けれどもこの部屋は生きているかのように日を追うごとに狭まり、わたしを押しつぶそうとする。部屋が狭くなっていくのにも、それでスピーカーがひしゃげて壊れてしまったのにも、誰も気づかないのかもしれない。カイトはわたしに話しかけているのに、音が割れて何を言っているのかわからない。わたしが何度叫んでも、誰も気づかない……

 目覚めると胸もとと背中がじっとりして、目をやる時計は夜の八時を指していた。夢だった……寝台のそばにはあたたかい色の光が灯っている。消し忘れたのかと思い手をのばすと、ひんやりと心地よくなめらかなものに触れた。
「目が覚めたのか」
「カイト」
「まる一日寝てたんだぞ、具合はどう」
「暑い」
「下がったかな」
 触れたのは彼の手だった。その手は今度はわたしの額にうつされ、汗ではりついた髪をつま先でそっと除けて、おそるおそるあてがう、神妙なかんじがした。下がった、とはなんのことだろう? ふだんより暗く思える視界の隅で、カイトが息をついた。肉声が聞こえることが、まだ不思議だった。
「ずいぶん良いな」
「どういうことだ」
「おまえ、熱をだして、……覚えていないか?」
 そう言って彼はわたしに、傍の着替えを投げわたした。熱。風邪をひいていたのも知らなかった。ぐしょぐしょに濡れた服を脱いで乾いたものに着替えると、部屋の空気が異常なほど澄んで感じる。それなのにカイトは歩み去ってドアノブに手をかけた。わたしをまた、置いていこうとしている。つらいのが、たとえ夢だって。困らせてやりたいと思った。
「腹がへったのだが」
「ああそうだ、そこにパン粥があるんだ、いま持ってきた」
「自分じゃ食べられない」
 振り向いたカイトは一瞬唖然として、それから「はあ」と言ったが、素直にノブにかけていた手を離して、木のスプーンがつっこまれた陶器を持ってベッドサイドに腰かけた。きゅっとスプリングが鳴いて、おもわず肩が震えた。
「食べさせればいいのか」
「あ、ええと」
「ちがうのか」
 わたしはカイトを怒らせるつもりで言ったのだ。それがどうしてこうなる。ちがわない、と言った声は、罪悪感でちいさくなった。スプリングのゆらぎが心のようだ。象牙いろの陶器を持つ手指の長さ。夢なのではないか、これも。悪い夢だ、悪い、良い夢か、わからない。覗きこむとわずかにあまい湯気がたっている。いっぱいに満たされた牛乳のなかに、ひたひたになった一口大の食パンが、耳つきで入っているやつだった。わたしが、耳つきのほうを好むからかもしれないと、すこしばかり期待してしまった。
 先にひとくち味見をして、もう熱くないから、と彼はスプーンをさしだす。顔色をうかがって、口を開けるだけでひどく緊張した。いまのカイトはわたしの言うことをきちんと聞いて、わたしのすることをすべて見ている。つまりこの人のために口を開けてやるようなもので、わたしは自分を追いこんだことをとても後悔していた。人から食事をあたえられたことなんて一度もない。首をもたげて、ぬるめの甘露が舌に触れる。スプーンをくわえこんだとき口角から雫がこぼれたのも、なにか違うことをしているみたいでたいへん恥ずかしかった。指先が口もとをぬぐってゆく。
「下手くそだな」
「うるさい」
「粥はうまいか」
「……うまい」
 カイトは微笑った。からだを壊したことのないわたしに、粥というのはあまりにやわらかく、やさしすぎた。同じ色の甘みを溶かした牛乳が、照れくささとともにあたたかくわたしの喉をすべり落ちる。いてほしいとき、いてくれる。たしかに触れられる、このひとはまぼろしではないのだ。
「いまだけ、どこにも行かないでくれるか」
「ああ」
「わたしの頼みをもっと、聞いてくれるか」
「かまわない」
 ……おまえは生まれたばかりだから、それでいい……言葉にのって、ふた口目がゆったりと掬われてゆくのを見ている。

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