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すみいろのおはか

零とベクター


 くしゃっと音をたててこわれた。自慢の鎧。笑ったようでした。ぼくはベクターのすべてを受け入れるのがあたりまえでしたが今回ばかりは悲しい顔を隠せずに、半袖の制服がちょっと寒いふりをして、右手で左腕をつよくつかんでいました。でも夏は暑いんだ。それを知っているのはふたりだけど、感じられるのはぼくだけです。ベクターは、踏んづけたかぶとむしを蹴っ飛ばして、笑いながら、おもしろくねえ、と呟きました。それはベクターが分からないのをいいことに嘘をついたぼくが空々しいからかもしれないと考えたら、おもわずつかんでいた腕をぱっと離していました。陽に焼けない左腕にはうっすらと赤い指のあとが残っていて、それはだんだん白くなってやがて消えていきました。
「汚れちまうよなあ」
「どうして? こんなこと、ベクター」
 ぼくがベクターだったころは、もちろん彼のすべてを知っていたのでした。むかしのことも、本当はどんな気持ちでいるのかも分かっていたのですが、今では、頭のわるいぼくには分からないことがたくさんある。うつむいたら、アスファルトにつぶれたかぶとむしの染みがついていて、こんな殺戮をしてどうするっていうんだろうとぼくの正義感が(ベクターに必要なかったそれが)囁きかけてきました。聞こえない、分からない、そういうふりをするのは簡単です。さっきも。ぼくはそう、ベクターが好きだったから。人間のありかたとして、ベクターが作り上げたぼくにいろんなことを教えてくれるその間に、すくなくともそれなりの愛を知らざるを得なかったのでした。残滓としてのぼくが持っていないすてきな部分をベクターは持っていたし、なんだかんだ言ってもたくさんお世話もしてくれた。けれども今は、聞こえないふりをしたって振りきることはできず、かたい体のなかに仕舞われていたであろうみずみずしくやわらかな内臓のあとをみつめて、かなしくなるだけでした。
「どうしてって? 生きてたってみっともねえだろうが、こんな虫けら」
 低い声で言い放ついまのベクターは彼らと同じだとぼくは思うのです。重くるしい鎧のしたはあっけないほど脆いのに王と呼ばれて。でもベクターはそれだけではいやだったのだろう。彼は王の弱さに気がついてしまった。簡単に踏み壊されて、無惨なすがた。そうです、みっともないから殺したのです。ベクターにとって生きる価値のないものは、すべてだ。ぼくはぎゅっと目をとじてしまいました。こわれた外側の羽根のなかには、まだうすくて、きれいな銀色をしたもうひと組の羽根があることを知っていました。それでもベクターはこわしてしまうんだ。それなら彼にとって、もはや、ぼくはなんなのだろう。その背中を抱きしめたくて駆け寄ろうとしても、足元がこわくて、もうだめなんです。
 ベクター、と小声で名前を呼んだら、彼はぎらぎらした目をいぶかしげに細めて、不機嫌そうな唸り声をあげて、しかしどこにも行かずに待っていてくれました。これは愛だろうか? 難しいことば、きみはくだらないと言ってそれを説明してはくれなかったけど、きみも、ほんとうは忘れてしまったんじゃないか?そのうち、だんだんとぼくたちのあいだに、とんでもなく静かで、生々しく息づいた壁が産まれているんじゃないかとか、その壁はぼくを生かすかわりにベクターを永遠に平行線にとじこめてしまうのかとか、ふと考えて、ぞっとしました。
「ぼくは、きみを愛しているから、ベクター、きみがぼくを生かしているから……」
 ひとりごとのように、それはぼく自身に言い聞かせていました。もうぼくたちはひとりではなく、ふたりだったとしても、ぼくはぼくに語りかけるほか本当のことを伝えるすべを思いつけなかったのでした。ベクターはぼくのことばを聞き漏らすことなく、ぼくとちがうその体を揺らして「冗談! 愛? ばか言うなよ」と大笑いしてから、突然真剣な顔をして(おそらくこれはぼくと同じ空々しい嘘だったのです、しかしぼくはそれだけでもふたりが同じだったという名残を見つけたような気がしました)、それから、
「零、愛みたいな使い古しのボロは捨てろよ、おまえはおれなんだから」
 と言いました。そうしながら長くするどい猛禽の爪をつけた指先で、ぼくの頬をからかうようにちょっとつつきましたが、そのときの、臆病としか言えない手つきと彼の中身の空虚さ、さびしさといったら、それはぼくにもすっかり分かってしまうほど取り繕った態度でした。ベクターはぼくらが同じと言いながら、ほんとうは欠片もそんなことを思っていなかったのでしょう。ほかのすべての欲を削いだ呪われた容れ物に、ただ生きようとする渇いた望みと、その達成のために必要とされる狡猾とも呼ばれる知性を貼りつけた彼。そして肉体と呼ばれる重みを持ったぼく、ふたつはもう釣り合わないのだと彼は思っていたのです(彼、彼、と呼んでも、彼が彼と呼ばれるための生物学的根拠は、その容れ物には見あたらない)。肉体だけで中身のないぼくと、中身ばかりが肥大化していくベクターは、だれよりも近いのに触れあうことができないのでした。偽りの神が騙った愛は普遍化し形骸化した、メッキが剥がれたのさ、そのとおりまともな神なんかいないんだ、などとむずかしいことを幾つかベクターは吐き捨てて、つまさきをにじり、今度はおもいきりしかめつらをして言いました。
「つまり、零、おれたちが神なら上手くいくのさ」
「すべてが? ぼくたちが一緒にいることも?」
「そう、そうだよ」
 なんだかとても良いことを思いついたような気がして、それならがんばらなくちゃいけませんね、と言ったら、わがままの満たされた子どものように上機嫌で、にじった右の足から踏みだしていきます。それを見たぼくはすこし元気になり、同じ右足から彼についていこうと足元に目を落としました。こわれたかぶとむしの染みがまだ黒ずんだ線で残っています。もしかして、もしかしたとき、ベクターの容れ物のあとにはいったい何が残るのだろうと考えたら、ふたたびぼくはかなしくなってしまいました。

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