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乙女の詩

カイトとミザエル


 花を籠いっぱいに手折って、芳しさにまどろむ。むかしを思い出すことが苦しくはなくなったから、花々もようやく愛せる。むかしばなしの聞き手はいまも机に向かってむずかしい顔をしているだろう。息抜きを知らない男だ、だから、愛せる。愛するものがこんなにたくさんある。けれどもいつか愛するものはうしなわれる。わたしも死ぬ。うまく行かないものだ、だが、この花が咲きつづけるとしたらわたしも、ぐしゃぐしゃにして捨ててしまうかもしれなかった。そんなふうにきっと、だれかが妬むのだ。かつて幸福だったわたしが神に殺されたように。
 指さきを翳すとあおい匂いが掠める。過去ばかり脳裡を翔け、瞼の裏は影に冷える。初めてからめた手を思いだして、あの見かけより骨ばった男の手が、ときにきつく握り返すちからを追想し、たしかにわたしはもう、傷つけることから放たれているのだと知る。踏みしめた月の地がどれほど冴えざえとおまえのこころを映したか……人である彼はいつまでも肌に覚えることあたわず、わたしもまた、もはや追憶にゆだねるしかない。生きすぎて、未来を見る目をうしないつつあったわたしに、彼は若くしなやかだ。あおい匂い、幸福な午睡に誘われる、そこには可能性だけがある。無限を捨てたことで、急速に近づきつつある不思議を感じている。
 陽の光を憎んでいた、ずっと、やわらかな芝生に落ちる腕の影すら疎ましかったろうに、いまでは鳥のかたちなど作って羽ばたく真似をする。子どもみたいだ、あのひとは笑うだろうか、籠を開いてくれたあのひと。つめたい夜風の匂い、薬品の匂い、ときにあまい練乳の、ときにあたたかなスープの匂いがするひと、わたしの記憶、とおい記憶をくすぐるひと……腕のなかにおさまると、いつも泣きたくなる、聞いてほしいことが山ほどある、それなのに、ことばになる前に弾けてしまう。頭のなかはばらばらに散った文字で埋め尽くされて、ただわたしは呻くだけだ、赤子のように。けれども泣かない。存外にしっかりした胸にぴったりと頬を寄せて、目を閉じる。彼はだまって抱きしめている、その圧し殺した静寂をときおり、ふてくされた子どものように思う。わたしたちいつまで幼いのだろう、手さぐりで求めあって、おびえては離れる、いつか大人になるのに、いまはそれが心地よくてならないのだ。見えない力で押し流される船のなか、わたしたちだけは流れを感じなかった。むかし、通りすぎた時に戻るように、つたなく手を握っている。
 わたしは目を覚ました。どこまでがゆめだったのだろう。あるいは、ゆめなど見なかった、かもしれない。カイトはいつの間にかわたしの横に腰を下ろして、さっき摘んだまま花籠に放っていたコスモスの一輪を弄って遊んでいた。すこしばかり萎れて、淡い桃色に紫雲がたなびいていた。
「起きたか、長い昼寝だ」
 そう言うなり指さきで捻っていた一輪をおもむろにわたしの髪に挿す。なに、とくすぐったく身をよじると微笑った。あおい匂いがほのかに揺れた。
「そうやって遊んだよ」
「だれと」
 彼は答えなかった。その微笑から、もはやなんの憂いもいらない弟でないことは分かっていた。わたしは落ちたコスモスの花を拾い上げて、みずからもういちど飾り直した。彼はそれを不思議そうに眺めていた。あどけない顔をするのだと思った。このひとも、なにも変わらずやさしかった。懐かしむものはわたしと同じで、だれにも打ち明けずひそやかに、胸のうちにしまいこんでいた。
「わたしも、思いだした……そう、花を、だいじにしすぎて手のなかで萎れた花を、いつも喜んでくれたのだ」
 かなしい微笑みをする。思い返すことを彼は罪として久しいのに、焦がれてやまないものがそこにはあるのだった。わたしたちは花冠をつくるように指をからめる。ふたりとも子どもだった、だがそれは永遠ではない、わたしたちもいつか大人になって、いつか死んでゆく。幸福は続かないと知っている。それでも、指をつなぐたびにうつくしく気高く、そしてやさしかったひとのことが思われてならなかった。日が暮れて一閃の光をしめす、花籠の花弁がつつましく空へ溶けゆく。

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