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フラスコ

零とベクター


 シャープペンシルはオレンジ色だ。迷ったようだがやっぱり、黒やむらさきは、背伸びしてるみたいで似合わない。それはおれの色だし、零には橙がいちばん、まし、だ。机に向かってすいへーりーべぼくのふね、とうわごとを言ってる。水兵、liebe? なんてませたこと言うやつだ。
「理科のせんせいが。元素の、覚えかたなんですって」
「肝心の元素は覚えてんのかよ」
「あはは、ぼくら覚えるにはまだ早いんだ。でも頭から離れなくなっちゃって」
「リーベの意味知ってる? 恋人だってよぉ」
 それだけで染めた、船乗りの恋は不貞なのを知らない純朴さ。えっ、あのぼく、聞いたの、そのまま口に出しただけですから、としどろもどろの弁解が学問から遠ざかっていくのが愉快でならない。零はしばらく泣きそうな顔をしていたがそのあと、思い出したように瞬きをして、すっと表情をおさめると、ため息をつき、まつげを伏せて愁えたように微笑んだ。そういう妙に大人びた、理解しがたいようすがぞくぞくして好きだ。壁に吸い込まれてゆく音の不安、零がばかなおかげで、よからぬことが起きないのはいい。怖いのはたぶん、その奥にある成長だった。
「でも、船はいいですよね、きみと旅行なんて行ったら楽しそうだ」
 それを言うための静けさだ。空元気が得意で、ふとしたときに淋しそう、その髪は洋燈の色をしていて、夜のしじまによく沁みる。(やっぱり、橙がお似合いだよ。)ぼくのふね……零とならいいな。知らないとこへふたりっきりで、このまま、勉強なんか止してさ。誰もいないところ、そこがたとえ海だって、零となら行ってもかまわないんだが。海は理由もわからず嫌いだった。だだっ広いあれは胸糞悪くなる。けっきょく、どこに行くにも肩身が狭い。零ひとりならあるいは、では、おれはなぜ。
「ベクター」
「ああー、おれも元素になりてえなあ」
「ふふ、なに言ってるんでしょうね」
 仰々しく腕組みしたら、同時にはためかす翅を見て慎ましく笑い、それ以上聞かなかった。おどけるのは得意だ。迷路を築くのも。だけどどんなジョークも種があり、迷路はいずれ解かれるものだ。零がこれからたくさんの知識をつけて、単なる個性ではなくおれとの決定的なちがいを悟り、おそれ、すべて知りたいと思う日が来る。この世界の元素で説明できないものだと分かったら、それでも、ふたりきりでいようと言うのだろうか。元素になりてえなあ、なんておれはどこまでも本気でうそがつける。おれのうつしみ。目にまぶしい彼の意識の底にはおれの欲が眠っている、ゆえに深くは問い詰めない、愚直なやさしさを得たのだろうか。ならばこのまま未来をうたう希望も壊して、過去だって二度とかかわりたくない。ずうっと、中身のない呪文を唱え続けてたらいいのに。ノートには座礁した船の絵が描かれて、零はただ上の空で、リーベ、と呟くだけだ。

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