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蝸牛

零とベクター
同棲
れいべく性描写あります


 学校から帰ると、なんだかすぐに眠くなってしまう。はりきりすぎている。まいにちまいにちお家に迎えに行くたび、教室へ行くたび、お昼ごはんを食べるたび、そしていちばん、お別れをしてひとりの帰路につくたびに思うのは、ぼくには無理なんだということだった。遊馬くんの生きかたは、ぼくにはどうも、あこがれで終わりそう。むつかしく考えてしまうのかもしれないけど、日々がすぎていけばいくほど、追いかければ追いかけるほど彼は遠ざかっていくような気がしている。さびしいのか、ぼくは。雨音が静かに夢にすべりこんでくる。

 うとうとしていたら、箸を落とした。食事中だった。意識だけははっきり目覚めたつもりで、でもぼくは思いのほかゆっくり顔をあげて、しょぼしょぼになった二つの目でテーブルの下に落としてしまった片方の箸を探した。ぼくが作るごはんというのは本当のことを言うとたいしておいしくないのだが、それでも人間は食べなくてはならなかった。右手がさまよっている。見つからないなあと無気力になっていたら、また眠りそうになって、テーブルの脇にこっつり額をのせてしまった。
「零、また寝てるぞ」
 すうっと涼やかに眠気が遠のいて、ぼくは今度こそはっとなった。ぼくといっしょに暮らしてくれる大事なひと。灰のなかからよみがえったような、モノクロのからだがテーブルのむこうがわから乗りだしてきてぼくを眺めていた。箸はその、ベクターのほうまで転がっていたので、とっくに彼がひろいあげていた。
「洗う?」
「いえ、ぼくが」
「じゃあどうぞぉ」
 子どもっぽく笑って、ぼくの出した手のひらを箸の反対側のほうでぎゅっと押した。他人の目に立って考えてみたら、こうして当たり前のことをしているのが滑稽に思われそうだった。だってベクターには、笑った……とは言ったけど、口らしいものがないし、さっきのからだの色に合わせて、真っ黒い一組の翅があるのだった。とても、落とした箸をひろって洗っちゃうような見た目じゃないんだよなあと思ったら、なんだかちょっとおもしろかった。加えて、ベクターの胸などには金に縁どられたあざやかな赤色の宝石みたいなものが嵌まっているので、なおさら変な感じがした。でもベクターは生きている。ぼくの視点で見てみたら、なんにもおかしいことなんかない。ぼくはベクターに生かされている。人間たる部分を彼からもらって。それは幸せなことだが、真月零という人間は、人間だから、謙虚なふりをして欲張りだった。
「あのさ」
「はい?」
 水滴をふき取った瞬間にベクターが声をあげた。ずっと言いたかったというような態度をしていた。一本だけの箸を持って立ちつくしているのがなんとも不格好な気がしたので、ぼくはあわててテーブルのそばに置いたクッションに座りこむ。ごはんはまだ温かそうだ。よかった、ぼくは思ったより眠っていなかったらしい。
「だから、おれのぶんはいいって」
 ベクターは目下のテーブルのうえを鋭い爪先でかちかちと叩いた。ぼくはとても残念に思った。ベクターの席には、ちゃんともうひとりぶん、ごはんを用意していたのだ。バリアンという生きものには口がない。もちろんそれは分かっているしこれはぼくのどうしようもないわがままだ。残酷だと言われたら、そうかもしれない。けれども、真似っこだってかまわないから、同じように生活したかったのだ。歯ブラシだって、マグカップだってふたりぶんある。二人はもとを同じくしているはずなのに、ぼくの思いをベクターは分かってくれない。それが、欲張りにはすこしかなしい。
「ぼく、なんでもさびしくて、あのう」
ここで一瞬ことばを切った。
「きみが、すこし、ただ……よかれと、」
「また? よかれとおもってぇ?」
「うん……そうだ、いつもの、それです」
 いまのぼくにはその口癖がちょっと刺さった。おととい、さくらんぼが売っていたから、きれいに洗ってガラスのうつわに入れて、きみのために用意したんだけど、それもやっぱり、ベクターはいらないと言ったのだった。零が食べるといい、と言ってくれたけど、ぼくはぼくのために用意したんじゃないものを、よろこんで食べたいとは思えなかった。冷蔵庫にも入れずほうっておいたら、あんなに透きとおる色をしていたのだが、赤茶けてぐずぐずになって、でもところどころ蝶の鱗粉を思い出させるきれいな青みどりの黴が生えちゃって、甘いような苦いような変なにおいがした。それでも捨てないでいたら、学校から帰ってきたときには、ベクターが捨ててしまっていたのだった。……よかれと思ってあげたものを、本人に捨てられてしまうっていうのは、それは、かなしいことだ。じめじめしたこの時期、食べものっていうのはすぐにだめになる。ぼくも、じめじめしているからだめになる。また、学校のことを思い出した。遊馬くんてとてもやさしいから何も言わないけど、ぼくがよかれと思ってやってること、ほんとはみんな捨てちゃいたいのかな。ぼくは怖くて訊けない、もし、そうだよなんて言われたらどうするの? 親友とかいうことばをあんなに、あんなに使っている遊馬くん。突き放されたら? 遊馬くんきっと言わないと思う、でもぼくは、ごめん、やっぱり信じられないんだなあ。
 うつむいたぼくを、ベクターはしばらくだまって見ていたようだったけれども、まばたきを続けて何度かしたあと「何かあったなァ」とにやっとした。ふつうに返事をしようと思ったのに、うん、と言う声はずいぶんかすれて弱々しくなる。ベクターの長い指が頬を撫でた。不幸なぼくを、いいえ、ぼくの不幸を愛しむ指だと思った。
「零はしょうがねえやつだ! 喋るための口がないらしい」
「それは……それは」
 きみのほうだ、とあと一歩のところで言えなかった。悔しかった。ベクターはまたぼくをばかにするように笑ったが、同時に押しつけてきたからだのためにその嘲笑が本気ではないことはわかっていた。ぼくたちはおたがいに何かあれば必ず抱きあった。いつからだったかはとっくに忘れてしまって、それだけ長いあいだぼくらは一緒だった気がする。それは文字どおりただの抱擁であったり、もっと、倫理のない、いけないことであったりした。ベクターが膝を割込むのをぼくはいまさら拒めない。倒れ込むときに肘がぶつかって、洗ったばかりの箸がまた転がっていくのも気づかなかった。

 はずむ息に混じって、またはげしくなった、と思った。雨だ。この季節はぼくたちに似ている。
「零、わかるよ、零の気持ち」
「……」
「いま、いまは、肉体も精神も、なんの壁もないし……」
 ぼくらのあいだには乾いた干し草のように匂いたつあたたかい愛情があるはずだったのに、長く降る雨にいつしか濡れて、ぺしゃんこになって、めちゃくちゃに絡まってしまった。無理に離そうとするとちぎれてしまうような、脆さがあった。ぼくはすこしずつ傷ついていき、小さな傷口のひとつひとつから脆い果肉があらわになって、そしてそこからだんだんと腐蝕してゆくのだろう。ベクターだけがぼくの生きた証になって、宝石の心臓はなめらかにきらめいて腐ることなく、永遠に罪を背負っていく。ああ、あわれなひと。ぼくはきみのもっともかよわい部分を、きみが捨ててしまったあのさくらんぼの果実のようなかよわい部分を、ぼくの残酷なきもちで傷つけて、六月の湿気のなかいっしょに朽ちていきたかったんだ。だけど、ベクターは朽ちない。生きているのに死んだも同じ、朽ちているのに朽ちない、ものを食べられない生物。それは、子供心にとてもうつくしく感じた。永遠というものに似ていた。
 花はどうだ。
 学校からの帰りみちずっと、季節が終わって朽ちていく花を見かけるたびにベクターを思いだしていた。来年も花は咲くけどそれはけっして同じ花じゃない。そういうものを見るとぼくは、なんだかおちつかなくなって、背骨や脚がびりびりとした。思えばあれはきみの唯一の生々しさを感じていたのだった。つまりこうしてぼくが傷つけるもの。いま、きみのからっぽのおなかの中に、ぼくのエゴだけが詰まっていく。
 ひとりでは生きられない、ぼくができないこともできるって言ってしまったのは、ちょっとだけでも誰かといっしょにいたかったからだ。笑ってくれる遊馬くんたちに申し訳ない。よかれとおもって、なんていうのは、それは誰かに対してじゃなくてぼくのためだった。だから今もこうして、ベクター、きみを大事だと言いながら引っ掻き乱している……天井を見あげるきみはどんな思いでいるの。ぼくの考えてることなんてもう分かってしまっているのかなあ。まわりのひとの鮮やかさをすべて食い潰して生きている、そういう強欲をぼくは捨てたくて、渇ききったきみのなかに置き去りにしていくのだ。なにも食べられないきみを構成するものはぼくのエゴだけだって、かわいそう、でもやめられないのは、胸もとと首筋とがじっとりと梅雨に汗ばむからだ。
「満たされるの? こう……していたら」
「卑しいこと訊くゥ……零は、やっぱり……おれに似てる」
「ほんとうに……きみだったらっ、よかった、」
 ぼくと、目の前のぼくと、別々のことをしているのになんの壁もないなんて不思議だ。ほんとうにぼくがベクターだったら……きっといまよりずっと賢く生きている。もしかしたら、遊馬くんだって手に入ったかもしれないほど賢く。だけどそうじゃないから溶けあいたがるのだろう。渇望するベクターと、零れるほどに持て余して、本当にほしい物が得られないぼくと。こころが、補いたがっている。でもそれはけっして長くは満たされないのだ。

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