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標本

零とベクター
切るとどろどろ


 めくらないまま年を越したカレンダーも、タンスの後ろに落ちていった写真も、やるせなくなった。時というものは意識したらとつぜん始まるのだった。心臓が錆びてあの人はいなくなってしまった。真月零はひとりになってしまった。生活感のある部屋がきゅうに馬鹿馬鹿しいのだった。
 「もっと贅沢すればよかったなァ」とあの人が言っていたのを真月零は思い出した。あのとき、嘘なのもなんとなくわかっていたのだった。あの人はどれだけ求めても満たされないのだった。手に入れてもかなしくなるだけだと気づいていたから、あの人が言う「贅沢すればよかった」はとっくに嘘だった。だからふたりはお金というので贅沢するのではなかった。たとえば生活だった。ふたりは肉を共有した。完全な一人でいるより不完全でも半分ずつ存在したほうがうれしかった。神さまもしたこと、神さまになるために必要なこと、世界をつくるということ、足りないところを補うこと。
 けれども真月零は特別難しいことは考えていなかった。ただあの人のそばにいられさえすればよかったのだ。求められたことをして、笑いたいだけ笑ってもらえて、泣きたいだけ泣いてもらえるだけが真月零の存在意義だった。あの人はいつも破壊したがった。すべてが気にいらない子どものように駄々をこねていた。つまりあの人は幸福になる自分を認めなかったのだった。真月零には愛があった。自分を愛することに理由がいらないようにあの人を愛した。なぜならあの人がそれを求めたからだった。
 いま、真月零はそれを疑問に思う。ぼくは、あの子をほんとうに愛したのかわからないんだ。あの子はきっと、あの子が求めなくてもぼくがあの子を愛することを求めていた。でもぼくはそんなふくざつなことってわからないんだ。ごめんね。ぼくがばかだっていつも言ってたね。そうだった。ほんとにばかなんだ。ごめんね。
 肉を分けあっても彼らはひとつになれないのだった。それでしばしばあの人は自嘲ぎみの笑いを洩らした。無理なんだよ、とその言葉に真月零はかなしかった。いつかぼくらは一緒になれますよ、とうわごとのようにぼやくと、うるせえ、と叱られた。

 真月零の指針がうしなわれた。彼はおどろいていた。影がないのに生きているなんて不自然だった。片方が消えたら片方が生きられないのが彼らだったはずだった。どこに行ったの、と真月零は呼びかけた。ぼくが生きている以上あの子がいないなんておかしいんだ。どこに行ったの、——。
 ——がいなくなって数日経った。土日は終わって学校がはじまった。真月零は陽の光を浴びてアスファルトに影が落ちることをおそれていた。——じゃない、だれ? ぼくはだれ? 真月零ってだれ? だれがつけた名前? パパもママもいないのに、どこから来たんだっけ?
 ひとりぐらしに押しつけられる責任も彼にはなかった。だれも彼を気にかけなかった。そうかぼくもいなくなったんだと——は思った。ぼくもいなくなったと考えているぼくはたぶん、空に見える星みたいなものだった。夜光るあれはずっとむかしのものなんだ。きみが教えてくれたんだ……そうでしょう、——?

「——、夢見るのかよ、へえ」
「——も見ますか?」
「知らねえ」
「どうして?」
「ぜんぶ信じないからさ」

 いまは知っている。——は人間だった。かつて。そしてぼくが——の前世だったんだ、と——はつぶやいた。——のうしなわれた唇に、権利に、——はいつも、自身に存在しない過去を感じていたのだった。
 そりゃそうだよ、過去そのもののおまえに過去があるはずないんだ。と——の笑い声がした。圧し殺すような嘲笑、ずいぶん久しぶりだった。そこにいたんですね、と——は振り返ったつもりで、しかしもう前も後ろも右も左もなかった。あの星どの方角にあったのだろう? 考えなくてよくなった。ぼくらは融け合った。ほんとうにやっと。足りないものを補った。世界がつくられた。
「信じなくていいんですよ、もうぼくらが神さまなんだから、苦しくないね」
 これが、——が——として思考したさいごだった。

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