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終末の水辺

カイミザ
「凪」「無知」「眼鏡」の語を入れるお題です


 わたしは隣り合ったカイトの手を握って、それきりなにひとつ思いつかないでいた。うすい手のひらは冷えびえとして、わたしの羞恥をたしなめるように覆い隠す。波はなかった。ふたりで、なにともなく夜を過ごすことを覚えて間もない。壁を覆う窓硝子がどこまでも澄みわたっている。
 カイトは前触れなくわたしを捉えては離した。神経質ないっぽうで、他人に対してひどく気随な面がある。いまだってそれとなく唇をよせる、いつしか彼の目をまっとうに見つめることが苦しくなった。それこそ射抜くような透徹で、わたしのすべてをあばきだすようなふしぎな眼鏡を、生まれながらに持ちうるようなひとだった。
「ミザエル」
 機嫌を損ねた叱責の声がそれでもしっとりと額にかかる。目をそらすことを極端に嫌う。見つめる行為が愛情の表現だとでも言いたげである。かち合うのは蒼白したひかりだ。それは時に飢えた獣の熱をもつが、いまはやわらかく霞んでいる。くちづけは目蓋におとされた。かつてこのひとはわたしの目を砂漠のようだと言った。かつてわたしには信仰があった、荒漠に生きていたあのころ、こんな不安はどこにもなかった。
「もうすこし、」
「うん」
 言いかけたなり噤んでいる。聞き届ける彼の口許は微笑んでわたしを慈しむ、抱きよせられて向きあう、つながったままの二つの手。
 わたしたちはしっとりと濡れゆく、その中でひかりの蒼白は虹の輪を作る。彼の持ちうるふしぎな眼鏡を、わたしも手に入れたようだ。たとえば縁にはめられた硝子は窓のそれと同様に、ただただ透きとおっている……あるものがあるべき姿に映る、それだけのことなのだった。正体はなんの魔法もないうつくしさ。我々が忘れていた、答えをもとめない彷徨。手に入れてみればひっそりと馴染んでしまう。
「もうすこし、このまま」
 ゆるされたものがある。わたしはわたしのくちびるに触れる。当然という空間に全身をたゆたわせる。なにもわからなかった頃生き急いでばかりいたわたしには、ようやく伝えるための言葉がゆるされ、そして彼には充分な時間と、あいだを繕う穏やかな静寂がゆるされたのだった。幽かな生の音、おそらくは彼も、つないだ手に感じているのだろう。いままで手のなかに隠すだけだった宝を、宵越しに仕舞う箱がある。その開けかたをやっと覚えたのだ。
 ミザエル、とまた名を呼ばれる。そうしてわたしはわたしを確かめていた。いまここにいること、気まぐれに寄り添う指さきの感覚も、ほんものだった。風はつねにわたしの大切なものを奪い枯らす……凪の日などもうずっと、知らなかった、これほど愛しいものだったとは。
 わたしもまた彼が彼であることを知らしめている。こんな夜、ふたりただひたすらに繰り返した。覚えたての言葉を使いこなせない無知な子どものように。

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