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カイトとミザエル

「え」
 卵がひそんでいる。わたしのからだに。
「きょうは具合が悪くて行けない」
 掠れ勝ちの鈍い音声が器械を通して伝わってくる。ぜい、ぜい、と死にかけた犬の呼吸に、カイトは仰向けに横たわったミザエルの、重力に姿を見せた横隔膜が上下するところをありありと思い浮かべた。学校も休んだか、途中で引けてきたのだろう、昼下がりである。モニターにうつる空が馬鹿に青くて、偽善的な正義を擦り付けるいやらしさは、どこの世界にも往々にしてある。
「ちょうどけさ、卵のゆめを見た」
 ぜい、ぜい。今度はその呼吸に、昆虫の羽音を聴く。カイトはどうにも笑えなかった。気の違えた音声信号の向こうで、羽音の主、巨大な虫が持つ鎧の脚があって、仰臥したミザエルのからだを押さえつけているようだ。その行為の意味はおぞましくあでやかに、カイトの脳裏をさざめいた。
「ゆめのなかでわたしはちいさな卵を生んでいた。卵には硬い殻があった。……水晶とか硝子なんかに似ていて中身ははじめ、雛よりちいさく思われたがまばたきの間に……むくむくと人間の形を取り、おどろいたことに、わたしにそっくりなのだ。
 生んだわたしがどうなるかというと、痛みのあとの恍惚から意識が溶けていって、いつのまに卵のわたしへと移し替えられている。いましがた痛みを感じていたほうの肉体はどこかへ行ってしまって……。
 あのゆめは警告だ、いつ生まれるとも知れぬ卵が自分のゆめを、わたしに見せたのだ。わたしは、いとしくて……いとしくてならない。わたしは今度こそ、わたしの意志で生まれかわることができる。それを与えてくれたのはおまえだな、……カイト」
 ときおり洩れる獣の呻きに似たくぐもりのあいだ、カイトは油っぽく光る黒鉄色の昆虫の代わりに、おのれの指さきや、視線の、ありとあらゆる一線上にか細い針のかたちをした卵管を想像した。彼は無垢ゆえ混沌にもがいたミザエルのなかに、まるで神の告知を気取った体で選択肢という種子を、うみつけた。喉を塞いでいただろうものは、いま、下腹に這い下がり、夕暮れの虫たちのようなざわめきでミザエルを低俗におとしこんだふりをしながら、なにより高尚へかけのぼらせていた。
 笑えるはずがない、カイトが狂おしく求めていたものを、このひとはもっとも近いかたちで手に入れられるかもしれなかった。だがそれは、彼が笑わないところでけっきょく、ゆめだ。生けるものが選択できない、記憶の彼方にうずもれる砂金を、ふたりは欲した。苦痛の渦中にミザエルはいて、きっと存在を確信して延ばした手のさきで霧散する羽虫の群れをただ茫然とながめるしかない。卵は青白く透き徹って、星の色をした液体を糸にしのばせながら孵る。ああ壮麗の情景が、瞼の裏にしかあり得ないと知る失意たるや! 希望的な、しかし河のようなあえぎを聞きながら、カイトはぼんやりとした。その氷った細やかな球体に触れて、たしかめることはかなわない。
「きょうは行けない」
 カイトには向こう側でミザエルがふっと、微笑った気さえした。モニターの空は馬鹿に青い。こんなものじゃない。なぜならほんとうにうつくしい青色はゆめうつつの狭間の刹那にしかなく、描こうとすればするほど、昇りつめた龍のように褪せてゆくしかないのだ。

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